愛欲の果ての嗜虐性と死Longvacation&LIFE

M、と一口に言われがちなマゾヒズム
その一文字の中にはいろいろな情念が渦巻いていて、とても日常では隠し切れない。
けれどもM性のある人間たちはどうにか生活の中にマゾヒズム的な快感を取り入れ、
性的に、或いは精神的に支配され加虐されることを望んでいる事も少なくない。
では、マゾヒズムのアガリ・行き着く先はどこなのか?
フィクション、ノンフィクションの例を2件ほど参考にし、推測してみようかと思う。

  • 有名なマゾヒズムの金字塔、小説「O嬢の物語」についての考察であるが、もともとヒロインのOはパリでフォトグラファーとして働く女性だった。ある日恋人のルネから懇願され、ある場所に連れて行かれる。それからOはM女としての教育を施されるわけだが、ある日ルネはOを捨てる。ステファン卿という人物が出入りするSMの城「ロワッシー」に引き渡されたOは次第にステファン卿の「持ち物」として人格さえ奪われていく。日本で訳されている「O嬢の物語」は、あるパーティでステファン卿の手でOがオブジェとして放置される様を描いて終わりとなっているが、実はこの物語には続編があり「ロワッシーへの帰還 」と題されたこの物語では、ステファン卿に捨てられることとなるOが「捨てられる事を選ぶよりも死を願う」ことにより、ステファン卿に自殺の許可を請う。自殺を許可されたOは死によって卿への忠誠心を完全なものとするのである。

と、そういうような内容なのだが。
この物語に関しては精神的な奥深くまで、男のサディズム・所有欲にからめとられ、
最後は人生さえも男の支配下の元で指南されたいと望む。
卿に飽きられ、それも叶わなくなったOは死をもってプレイを終了させたかのようだ。
体も心も所有権はサディズム側にあり、この物語では男の指示如何では、
生きる事すら選択できない。
これほど深く心と体が依存していくことがマゾヒズムの極みなのならば、
やはり精神的には「生きる事を終わらせる」ことがプレイの終了であり、
それすらも自信の意志では遂行できない。
この物語はフィクションであるために、実際にここまでのメンタル面での依存というのは、
なかなか事例がない。
しかし、これほどこの物語が世界でいまだに支持されていることを思うと、
現社会では実行しずらいが、この顛末に少なからずロマンを持っている人がいる。
ということではなかろうか。
彼らの最後の望みは主により命じられた「死」なのか。

上記では、精神的に主に依存するマゾヒズムのアガリが死だということもある、
ということについて書き進めた。
それでは、精神的な支配よりも体に与えられる加虐からの快楽がある沸点を越すと、
どうなるのかという一例をあげてみる。

  • 猟奇殺人ということで有名な小口末吉が起こした事件。http://mistress-cafe.net/moon/library/yone.html←こちらの参考文献を読んでいただければお分かりかと思うが、殺されたよねは多淫の気があり、けして精神的に末吉の所有物になりきり加虐を請うたものではないことがわかる。

このように、ただ肉体的に虐げられる事や一般的に苦痛と言われることにより、
快感を得る一部の人たちにとっては、「死」そのものすら甘美な快楽なのだろうか?
この事件を例に挙げたのは、よねの情欲の相手が決して末吉でなくてはならないという、
必要性を感じなかったからだ。
浮気相手然り、よねは苦痛が快楽へとそのまま置き換えられる性癖だったがために、
最後には死の間際まで追い詰められてもまだいたぶられることを望む。
ここまでのM性というのもまた特殊なのではあるが、
情念が希薄とすら感じられるこの例では、死=快楽と思わざるを得ない。
過度のマゾヒスティックな欲望の最期は「死ぬ事」なのか。
1件の事例では計り知れない奥の深い性欲である。