やっと書く気分が纏りましたよ:LIFE

なんて長い間さぼっていたのかしら…!!
それもこれも幸せな日常のせいね。
すっかり痛みなど忘れていたからかなと思うわたくし。
それでもしっかり聞く話は聞いていたりするので、そんなことを少々。

  • わたくしの大切なお友達にとても丁寧なお付き合いをしているご主人様を持っている女性がいる。彼女の話を聞くのは最近自分が忘れてしまった、偏執や痛みなどが思い出されてとても楽しい。そんな話の中で、彼女がご主人様の尿を頂いたと聞いて、「ああそんなにも愛しい者を持てるなんてすごいなあ」などとぼんやり考えた。わたくし自身にスカトロのケがないために口惜しいがその受諾する悦びがわからない。けれども自然に受け入れられる従順な心はどこまでいくのだろう?彼女の中でのボーダーはどこなのか?糞便を食すことも厭わないのか?不躾ながら聞いてみた。このことについてご主人様と話してみたところ…「スカトロを主体とした行為ではないけれど、いつか食べさせられることは充分に考えられるしその時にはきっとたくさん責められていて、素直に受け入れられるのでは…ただそこに躊躇があるようなら主人も強制はしないし、そのことだけにはこだわらないと思う」という答えをもらえた。最後に「究極だなあと思う」と付け加えられていたのが印象的だった。
  • スカトロに関してはグロの部分が強調されて当たり前だと思う。それは排泄物・汚物と捉えられている以上は仕方のないことだ。けれどそれが敬愛する主人の(この主人という言葉は支配や独占や君臨に屈する勇気のある性癖を持つ人たちが順ずるという意味で)、全てを受け入れたいという気持と、奈落の底まで貶めた自分の愛奴がその時どんな反応をするのかという、支配する側の愛とリビドーと…とても深いところでの葛藤や相手への大事な想いがひたすらに交錯していて、なにかくらくらとするほど感慨深い。わたくしにそこまでのリビドーがないので、根底にある欲望が分かりきれないのがとても悔しい。結局はこのことを突き詰めて考えたら、持たない者の嫉妬にも似た劣等感みたいなものを感じて、自分でもすこしおかしかった。